皆さんこんにちは 三重県鈴鹿市の小倉 健と申します。
私が生まれてから現在に至るまでのことを綴って見たいと思います。
プロローグ 運命の日
1975年4月16日、私は8ヶ月の早期出産で約1,300gの未熟児として生を受けました。出産前に「この子はもう助からない。」と言われたそうです。
私は出産時に泣き声を上げる事なく生まれ、結果として重い障害が残ってしまいました。脳性マヒの障害認定を受けたのは、生後二年が経過した1977年8月。この時家族はこの現実をどのような想いで受け止めたのか想像もつきません。
「障害を持って生きていくこと」これが私の人生のテーマとなりました。この事が良くも悪くも私の人生に影響を与えていくことになります。これから私が体験してきたことを書いていこうと思います。
障害の認定を受けたあと、医師の勧めで2歳時に2度の整形外科手術を受けました。2歳の時だから記憶がないはずなんですが、よっぽど怖かったのか手術の場面は記憶に残っています。私たちの小さい頃はこの分野の医療も発達段階で、とりあえず切ってみるというのが主流でした。まさにモルモット状態。結局大きな変化はありませんでした。その後自宅で過ごすことに。物心がつき始めた私は周囲の人達との「違い」に気づき始めます。「あれ?体が動かない、立てない。何で?」こんな想いが頭をめぐります。そして私の中での葛藤が始まりました。
幼少時は保育園・幼稚園には通わず、自宅で過ごしました。普段はもっぱらNHK教育テレビを見たり、オセロなどの遊具で母親や祖母と遊びながら過ごしていました。5歳時には、オセロでは母親や祖母に勝てるようになり、誰に教わったわけでもないんですがアナログ時計が読めました。体は不自由でしたが、知能のほうは障害を受ける事がなかったので、できた事ですが。その他、母親と一緒にリハビリ訓練の毎日。近所を補助輪付き自転車で散歩したりという生活を送ってました。私には二つ上の兄がいるのですが、この頃はよくケンカしたのを覚えています。私は負けず嫌いなので、体が不自由なのに向かっていきました。今思えば無謀ですが・・・(笑)。幼少期はこんな風に過ごしました。そしていよいよ学校入学を迎えます。
幼少期を自宅で過ごした私も、やがて学校入学を迎えます。普通なら地元の小学校に、という風になるところですが、当時は障害を持っている生徒の受け入れ体制などの不備や、風潮などから津市にある城山養護学校に通うことに。私が住んでいる鈴鹿市の自宅からスクールバスで1時間半くらいの通学を、この年から12 年間続けることになります。学校に入学するまで家族以外の人と触れ合うことがなかった私にとって、ドキドキワクワクの世界です。どんな人と出会うんだろう、どんなことをするんだろう、そんな想いでいっぱいでした。入学式では緊張しながら名前を言ったのを覚えています。実は私の自信の源はこの12年間の学校生活にあります。様々なエピソードを交えながら振り返っていきたいと思います。
私が通った三重県立城山養護学校は三重の県庁所在地の津市にあります。当時は養護学校自体の数が少なく、様々な地域から生徒が集まってきていました。地域で学ぶことはなく、一ヶ所に集められた感じ。だから周りの人々は私の存在を知らない。この事が将来大きなネックになるんですが・・・。
学校は小学部、中学部、高等部の一貫教育。7歳から18歳までの生徒たちが一斉に集まることも。勉強は普通の教科ですが、学習スピードはめちゃくちゃ遅いです。小学部の頃は4年から能力に応じた学級編成になり、理解力に障害がなかった私は上級生と一緒に勉強することになりました。この頃からライバルを意識するようになって勉強が楽しくなってきました。その裏側で、私より重い障害を持つ親御さんからの私に対する過剰な期待、やっかみなんかに苦しむことも。
「この子より、いろいろあなたは幸せでしょ。頑張って。」「あの子はいいよね、障害が軽くて。」色々言われました。たしかにそうですが、当時の私にはその言葉が重かったです。
学校生活の面でも児童会長や生徒会長を経験。常にリーダーシップをとってきました。中心的存在であるがゆえに優等生であることを望まれ、自分を出せなかったりもしました。頑張れ、頑張れってよく言われましたね。こんなに頑張ってるのに、って言いたかった。辛い一面ものぞかせながら生活を送ってました。
小、中学部を卒業し、高等部は商業コースへ進学。この頃からだんだん自分の将来へのばくぜんとした不安が襲ってきました。私の物心がつく前に両親は離婚し、母親だけの状態。そのような中で障害を持ちながら自分が生きていくことを考えた時、もし母親に何かあれば私は自宅で暮らすことはできず施設送り。頭の中にこんなシナリオがよぎりました。この頃の私は自分を悲観的に見て、このままの延長線上で生きていっても健常者の人のように暮らすことはできない。何で私だけこんな思いをするの?と思っていました。2つ上の兄には毎日たくさんの友達が来ていました。その光景がとてもうらやましく、自分と重ね合わせると
その違いに言い知れぬ辛い想いがありました。一番最悪な時はこのまま死んでしまおうか、と思ったほどです。
そんな中でこんな最悪な状況にはなりたくない、だめもとで頑張ってみよう。これでもしダメだったら諦めようと思い、高校3年から資格取得の勉強を始めました。本当に追い込まれたときいい意味で開き直り、前向きに取り組もうと自分の中に変化がおきました。この変化が自分の自信を創ることになります。
もう、お尻に火がついた私は、今自分にできることを必死に考えました。同時に「自分は一度死んだ命を救ってもらった。こんな私にも何かできることはないか?そして家族を安心させるには、私が就職して、自立すること。よし、やるぞ!」この時から私の意識が変わり、資格取得に向け猛勉強を開始。高3の一年間は
一日7時間から8時間の勉強を自分に課しました。その当時は辛いなんて思わなかった。とにかく社会に出るためにはこれが必要条件。将来は働いて、友達いっぱいつくって楽しむぞ、と言い聞かせながら頑張りました。周囲の協力もありがたかったです。簿記の担当の先生は、土曜の放課後まで私の勉強に付き合ってくれました。
その甲斐あって、高3の夏に全国経理学校協会の簿記検定3級を取得。自信がついた私は、冬に全国商業高等学校協会、簿記検定1級、2級、情報処理検定3級、ワープロ検定4級、さらにアマチュア無線技士4級を取得。半年で6つの資格を取得することができました。私の学校で簿記1級を取得して卒業したのは長い歴史の中でも私だけです。
このことを成し遂げられたことが今でも私の自信の土台です。まさに限界突破でした。どんな状況にあってもやれば出来るんだと気付かせてくれた出来事でした。
資格を取得し自信がついた私は、もっと実力を磨きたいと思い、大学進学を考えました。当時通学することが難しかった私は、商業系の学科で通信教育課程があるところの大学を探しました。候補が少ないながらも日本大学の経済学部が見つかりました。体が不自由でも資格を取得してハンディを補いながら仕事に就きたい。公認会計士を目指すぞ。そんな夢を描いていました。校長に推薦状を書いていただき、大学側と交渉。しかし、結果は厳しいものでした。理由は取得しなければいけない単位に体育科目があるため、体育のできないあなたは受け入れることができません、というもの。体の不自由な私に体育の単位を強要するのは不合理と代わりのものの単位取得を交渉しましたが、実らず結局進学は諦めることに・・・。今は進学に対する門戸は徐々に開かれていますが、私の時代はこれが現実でした。学びたいのに学べない。多くの友達に囲まれ楽しもうと思っていた大学生活も叶いませんでした。ショックを受けながらも新たな道を模索していきました。
進学の道を諦めざるを得なくなった私は、就職の道を探ることになり、三重県職員の採用試験を受験。しかし、もう採用者は決まっていたらしく表向きに試験が行われただけで私は落ちました。このときの面接、聞かれた内容がどうもおかしかった。学校の先生のことだけ聞かれて終了っておかしいでしょ。どうも、面接官の人と先生が知り合いだったらしい。
市の職業安定所に就職の斡旋に相談に行ったところ、担当者から厳しい一言が・・・。
「通勤も、トイレも一人でできないあなたに斡旋できる就職先はありません。お帰り下さい。」
その頃の私は、勉強はできましたが、生活面でできることといえばご飯を食べることぐらい。他の場面は全て親の介助が必要でした。着替えも、トイレも、就寝中の寝返りでさえもできない状態。そんな状態では就職はできませんよね。資格さえ取れば道が開けると思っていた私は厳しい現実を目前にした時、情けなさと、悔しさでいっぱいになりました。
しばらく悩み続けました。何も手につかなかったです。何で、私ばっかりこんな思いをするのかと、自分の体を悔やみました。前向きに生きることは時には辛さを伴います。毎日の生活の中で思い通りにならないことがたくさん起きてきます。色々思いをめぐらしても生きていかなければいけません。悩んだあげく一つの結論に達しました。
進学も就職も道を断たれた私は、しばらく悩みました。「やっぱりダメか。」諦めかけもしました。でもこのままの延長線上で生きていっても何も得られないと思い、施設に入所して生活訓練をしながらいつか就職につなげる道を選択しました。平成5年9月、私は三重県身体障害者総合福祉センターの生活援助棟に入所。初めて親元を離れての生活がスタートしました。自分の人生の中でも一番の変化があった時期です。
親元を離れて暮らす事は私にとって初めての経験で正直不安がありました。不安で入所して3日目で家に帰りたくなった事を今でも覚えています。でも、ここで諦めたら思っている事は何一つ叶わない、ここが踏ん張り時と自分に言い聞かせ頑張りました。
自分が自立するために何が必要か必死に考えました。まずは生活面のことを一つでも多くクリアする事を考えました。朝5時に起きて30分かけての布団の収納から始まり、約1時間かけての衣服の着脱。どうやったら少しでも早くできるかを考えながらひとつひとつクリアしていきました。最初は動きにくかった体も、生活動作の中で動かす事によって間接の稼動域も徐々に広がっていきました。そして、何より「やればできる。」という自信がつき新しい事にトライしてみようという気持ちが芽生えてきたのも大きかったです。
こうしてひとつひとつの事をクリアしながら自信をつけていく事と共に、もう一つの課題をクリアしていこうと考えました。それは、外出する事です。高校時代までは家族と年に一回くらいショッピングセンターに連れて行ってもらうくらいしか出かける事はありませんでした。当然地域に友達はおらず、家族以外の人と接触する回数も数えるほどでした。もちろん、その頃から外に遊びに行きたい気持ちはありましたが、我が家は母親のみで毎日懸命に働いている母親の事を考えると「どこかに連れて行って欲しい。」とは言い出せず、勉強に打ち込んだり、自宅でテレビゲームなどをして過ごす毎日でした。本来なら学生時代からいろんな交流があり、その中で成長していくものですが、私にはそういう経験がありませんでした。勉強はできても社会を知らない頭でっかちな自分に気づき、何とか遅れを取り戻そうと施設からどんどん外出する事を考えました。友達もいませんでしたし、とにかく自分を知って欲しいという気持ちから、自分の名刺を作成して出会う方々に配っていきました。出会った人数はざっと200人くらいです。最初は、社会福祉協議会などからボランティアを依頼し一緒に外出して買い物や食事を楽しみました。年配の方から色々話を聞いたり、同年代の学生さん達と会って楽しい時間を過ごす事もありました。
多くの方々と出会う中で自分の未熟さに気づいたり、心無い人の言動に傷つく事も多々ありましたが、そのたびに自己反省し、成長していこうと思いました。そうしていく中で「私にも世の中の人のためにできる事はないか、障害を持っているからといって人から施しを受ける存在で一生を終えるのは嫌だ。」と思い始めました。
体が不自由な私に何ができるか?真剣に考えました。まずはさらに知識をつけることと思い簿記の勉強を再開、さらにマーケティングの勉強も独学で始めました。周りからは応援もありましたが、一部の方からは「そんな事やっても無駄。」と言われる事もありました。しかし、何を言われても負けませんでした。さらにもっと外に出る事を心がけました。一番自信になったのは、ピア・カウンセリングというものを勉強するために一人で東京まで出かけた事です。新幹線のチケットは旅行会社の方に代行で手配してもらいました。知らない土地に行くのは不安がありましたが、外出する事は慣れていましたし、三重の福祉を変える先駆者になりたいという想いも芽生えてきていたので、楽しみの方が大きかったです。現地での介助は東京の自立生活センターという機関にお願いしました。東京でお会いした障害当事者の方との出会いは大きくかなり刺激を受けました。「あなたが一歩を踏み出す事で必ず三重県の福祉が変わる。」と言って頂き、その言葉が私の大きな支えになりました。
電動車椅子サッカーとの出会い
身障センター入所中には、電動車椅子の操作技術向上を目的に電動車椅子サッカーチームを立ち上げました。障害が重く半ばスポーツをする事は諦めていましたが、電動車椅子サッカーに出会った事がすごく嬉しかったです。チーム名は『自分達は最高に強いんだ。』という想いを込めて『MAX』と名付けました。電動車椅子サッカーに携わる事で、チームメンバーひとりひとりに目的が生まれ、結果として積極的に外出する事に貢献できた事が嬉しかったです。どんな人でも、目的があればそれを実現するために行動し、それが少しずつ自立につながっていく事を強く感じました。1997年に行われた全国大会では、初勝利を目指していきましたが、なんと優勝し、喜びを分かち合いました。
長年の夢叶う 急きょ就職決定!
入所して2年半が経過した頃名刺を配った時に知り合った知人の方から、鈴鹿市内にオープンするショッピングセンターに福祉の店(障害を持たれた方々が製作された授産製品を販売するお店)ができるらしく、店長として仕切れる人材を探しているとの情報を頂きました。私の中学の頃からの夢は「ショッピングセンターで働く事」でした。長年そのために独学でマーケティングの本を読み漁り努力を重ねてきました。その努力がまわりまわって実を結ぶ事になり、涙が出るほど嬉しかったです。福祉の店への就労が決まり、直ぐに施設を退所し、ここから私を大きく成長させてくれた11年半におよぶショッピングセンターでの勤務がスタートします。
いろんなエピソード
ドキドキワクワクの初出勤の日。私が従業員入口を通ろうとすると、立っていた警備員さんに呼び止められます。「おいおい君、お客様入口は向こうだよ。」すかさず私が「私も従業員です。」と言うと、不思議そうな顔をされました。まだまだ障害を持つ者が働くという事が認知されていない現実が垣間見えました。そこで私は、少しでも早く皆さんに受け入れられ認めて頂けるように、毎朝8:30に出勤しようと決めました。
通勤は電車と電動車椅子を使用して約40分かかりました。雨の日は電動車椅子用の合羽を使用して対応しました。とにかく皆さんに認めて頂きたいという想いで必死に頑張りました。そうしているうちに周りの方々の私を見る目が徐々に変化してきました。半年後にはショッピングセンターの事務所の入口のドアがドアノブ式から私が入りやすいように、横にスライドするタイプのドアに改良されました。従業員休憩室も私の休憩スペースを確保して頂きました。私が従業員として働く事によって、周りの方々が普段では気づかない事に気づき、変化していくのを身をもって実感できました。店長としての実力もつけようと通信教育で日本ショッピングセンター協会が主催している「テナント店長養成講座」を受講しました。半年間仕事をこなしながらの勉強は辛かったですがやり抜きました。無事講座も修了する事ができ、自信をつけた私は本格的に店のノウハウ作りに取り組みました。
仕入れから販売までの一連のマーチャンダイジング戦略を独自に考え、少しずつ顧客を増やしていきました。当時福祉授産製品を販売するお店はあまりなく、授産製品の普及の面から考えても店は大きな役割を果たしていました。その役割を障害当事者である私が担っていく事は、とても意義深い事だったと思います。ショッピングセンターの中ではCS(お客様満足)向上のための委員に23歳から抜擢され、障害を持つ者の目線から見た意見を出し、ショッピングセンター全体の運営にも関わらせて頂きました。さらに視察研修などにも出かけ、少しずつ検分を広げる事ができました。私の勤務は、様々なメディアにも取り上げて頂きました。店は何とか軌道に乗り、一見順調に見えましたが、その頃のお給料は時給¥300で、自分の将来への不安が付きまとっていました。店長という重責を背負いながら、頂けるお給料は最低賃金にも遠く及ばない程度でした。そのギャップにストレスを受け、体調を崩しかけた時期もありました。それでも周囲からは「働く場所があるだけで幸せじゃない。」と言われました。たしかにそうですが、このような状況では自立しての生活はできません。普通なら恋愛なども経験して、結婚をして独立する時期です。目指したい想いと現実とのギャップに一人で苦しみながらも、何とか状況を打開しようを色々考えました。
就職も厳しい中で、本当に実力をつけないと社会の中では生き残っていけないと痛感した私は、中小企業診断士の資格を目指す決心をしました。中小企業診断士は、経営コンサルタントの唯一の国家資格で、最終的な合格率は10%以下という超難関資格です。取得する事の難しさは覚悟のうえで、それでも合格すれば、障害者としては史上初の快挙になります。その事が、ひいては社会的弱者といわれる私達障害者の社会的地位向上につなげたいというのが私の想いでした。本来なら予備校などに通っての勉強が妥当な選択ですが、仕事をしながらの通学は困難と判断し、通信教育を中心とした独学で勉強を開始しました。試験範囲は気が遠くなるほど幅広く、難易度も相当でした。試験勉強を始めて一年半後、受験申し込みの時期が近づいてきました。試験実施機関の中小企業診断協会に車椅子での受験について問い合わせてみたところ、過去にあまり例がないという返答でした。私は、体が不自由な方々にも試験にチャレンジしやすい環境作りを診断協会に要望し、試験時間の延長など、障害を持たれた方の受験時の特別措置を作って頂きました。私の試験は5度チャレンジし、まだ合格できていませんが、長期的な視点に立ってこれからもチャレンジしていこうと思います。
子の他にも様々な事にチャレンジしました。マーケティングのカセット講座も受講し、いろんな事例に触れる事でセンスを磨いていきました。またある方から、アチーブメント株式会社という会社が主催している「新・頂点への道」という研修講座を紹介して頂きました。講座のデモテープを視聴した瞬間、私に衝撃が走りました。居ても立ってもいられなくなった私は、アチーブメント株式会社の創業者、青木仁志氏が書かれた「21世紀の成功心理学」を購入し読みました。青木社長の理念や研修講座の素晴らしさに感動し、自分の置かれた状況、これからやりたいこと、など色々考えていくうちに、私もこのような講座を受講して少しでも力をつけて人の役に立てる人生を送りたいと思いました。私はその想いと私の生い立ちを、購入した本に付いていた読者カードに書き郵送しました。ほどなくして、アチーブメント株式会社の社員の方からお手紙を頂きました。その中には「ぜひ、小倉さんにも研修を受講して頂きたいです。」と書いてありました。社員の方と何度かお電話でもお話しさせて頂きました。私も受講の意志は固まっていましたが、このようなトップクラスの研修の費用は高額だったため、私の当時の経済状況から2年間貯蓄して研修を受講する事をお伝えしました。目標としていた貯蓄もでき、いよいよ受講をしようと思いました。受講は宿泊も伴うので、いろんなご迷惑がかからないか?という事が心配になりました。その気持ちを青木社長にメールさせて頂いたところ、「社員一同全力でサポートします。」と温かいお言葉を頂き、安心して受講する事ができました。受講の中で、自分の人生を改めて振り返る事ができ、その中で私は明確に目標を持ち、障害に言い訳をしない人生を送る事で多くの人達によい影響を与えたいという気持ちが芽生えました。また多くの受講生の方々に出会う事もできて、多くの事を学ばせて頂き成長する事ができました。昔は「友人・知人がいない」と言っていましたが、今は多くの方々に囲まれ、とても充実しています。これも思いきって出かけていった結果だと思います。私の大きな財産です。
私たちを取り巻く環境が起こす現実。そして私の想い
今から2年半前、「障害者自立支援法」という法律が施行され、各授産施設、作業所の国からの補助金が大幅カットされました。私もその影響を受け、福祉の店勤務時に半年間賃金が月\15,000-にまで落ち込んだ時期があります。福祉の業界は国の補助金で運営されているところが多く、国の施策いかんで生活が脅かされます。国から支給されている障害基礎年金もそうです。私達障害者が置かれている現状はとても厳しく不安定です。そのような中でも、健常者と方々と同じように生き、人生を歩んでいく事が、私の目標であり生きがいです。この夢を実現することによって、障害を持っている方々や、多くの健常者の方々にも影響を与えられると信じています。私の人生をかけて取り組んでいきます。
2008年3月末で契約満了により福祉の店を退職後、5月から三重県内の福祉機器(電動車椅子やコミュニケーション機器)の販売の会社に勤務していましたが、会社の業績悪化を理由に6月末で解雇になりました。厳しいですが、今の現実を受け止め前を向いて頑張ります。社会の一員として、結果を出し、皆さんと同じように納税する事が一つの目標です。社会の構成員として皆さんと本当の意味で打ち解け、偏見がなくなる世の中がくる事を願っています。その日まで私はチャレンジの日々が続きます。
私の夢の実現に向かって☆